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はじめに
小学生の頃、放課後に友達の家で遊んでいたときのこと。
スーパーファミコンで「ダービースタリオン」や「クラシックロード」をプレイしていた。
馬を生産して、育てて、重賞を目指す。そんなゲームにどっぷりハマっていった。
誰がどの配合で走る馬を作るか、どんな調教で仕上げるか。
放課後のたわいない遊びが、いつのまにか僕の“競馬との出会い”になっていた。
そこからリアルの競馬にも自然と関心が移り、テレビでG1レースを追いかけ、血統表を読み、ジョッキーや調教師の名前を覚え、気づけば30年。
競馬は、僕の生活のなかにいつのまにか深く入り込んでいた。
でも、その30年がすべて穏やかだったわけではない。
今こうして「依存しない競馬との付き合い方」を語れるようになるまでには、何度も葛藤し、心がすり減るような瞬間もあった。
これはそんな僕の競馬との向き合い方の記録だ。
そして、これを読んでくれているあなたにも、競馬と健全に付き合うヒントが少しでも届けば嬉しいと思っている。
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競馬が楽しかった日々と、じわじわ広がる危うさ
20代前半の頃。
ちょうどディープインパクトが競馬界を席巻していた時代だった。
あの馬は本当に別格だった。直線に入った瞬間、他の馬とは違う脚で突き抜けていく。
会場の歓声がうねりのように広がって、僕もその中で何度も鳥肌を立てた。
そんな熱気を感じられる競馬場に、毎週のように通っていた。
あの頃の自分は、競馬を「生で体験する娯楽」として楽しんでいた。
レース前のパドックの空気、馬の筋肉の張り、返し馬の滑らかさ、ファンファーレが鳴った時の胸の高鳴り。
すべてが純粋な「体験」だったと思う。
でも、時代は変わった。
スマホとネット投票が当たり前になり、わざわざ現地に行かなくても馬券が買えるようになった。
便利になったはずなのに、そこから僕の競馬との距離感は、少しずつ歪みはじめた。
何の予定もない休日、ベッドでゴロゴロしながらスマホでオッズを眺め、なんとなく買って、なんとなく見て、外れて、また買って…。
気づけば何レースも投票していて、残高がどんどん減っていく。
その日、何を見ていたのか、どの馬に賭けたのかさえも、記憶に残っていない。
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なぜのめり込んでしまうのか
ギャンブル依存には、いくつかの心理的なメカニズムが働いている。
そのひとつが「インターミッテント強化」、つまり“ときどき当たる”ことによる行動強化だ。
パチンコやスロットと同じで、毎回は報酬がない。
でも「ときどき大きく当たる」ことで、行動は強く強化されてしまう。スロットやガチャと同じ構造だ。
もうひとつは「サンクコスト効果」。
一度お金をつぎ込んでしまうと、「ここでやめたらもったいない」という思考に支配されて、さらに投資を重ねてしまう。
競馬は、情報を集めるだけで楽しいし、戦略的に見えてしまう分、「自分なら勝てるんじゃないか」と錯覚しやすい。
そこに過去の勝ちの記憶が重なると、余計に深みにハマる。
この時期の僕はまさにそんな状態だった。
馬券を買ってるときは何かを“取り戻せる気がする”けど、終わったあとはただ虚しい。
次第に競馬を楽しめなくなっていった。
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4. 競馬は勝てないものと認める勇気
そこから僕が抜け出すために必要だったのは、現実をまっすぐ見ることだった。
競馬は勝てない。トータルでは、絶対に胴元が勝つ。
情報を集めて、考えて、予想して、それでも回収率100%を超えるのは至難の業。
それを認めるのが、第一歩だった。
それに、ネットやSNSに溢れている情報の大半は「勝ちを大きく見せている」だけだ。
「三連単的中!」のスクショは並ぶけど、「今月マイナス10万円」という現実は誰も載せない。
情報の非対称性に、自分が踊らされていたことをようやく認めた。
そしてもうひとつ大事だったのが、「過去の負けを取り返さない」と決めたこと。
損失は損失。取り返そうとすればするほど、感情は熱くなり、判断は鈍る。
それを切り離すことで、ようやく一歩後ろに下がれた。
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買わないことが楽しさを生む
いまの僕のスタイルは、極めてシンプル。
1日に買うレースは多くても5レースまで。
基本的にはG1しかやらない。
友達と一緒に競馬場に行ったときだけ、例外的に好きなレースを追加する。
この“制限”があるからこそ、ひとつひとつのレースに集中できる。
「買わないこと」が、結果的に競馬の面白さを取り戻すきっかけになった。
これは心理学でいう「認知的不協和の解消」にもつながる。
人は矛盾した感情を抱えたときに強いストレスを感じるが、「自分のルールに従っている」という一貫性があれば、ストレスは軽減される。
たとえば、他の人がたくさん買っていても、「自分はこのルールで楽しむ」と決めていれば、不思議とブレなくなる。
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推しを持つ馬を愛する
競馬を“ギャンブル”から“趣味”に戻すには、「推し」を持つことが効果的だ。
僕はもともと馬が好きで競馬を始めた人間だから、「この馬の走りが好きだな」とか「この厩舎の管理がいいな」といった視点が自然とある。
職場にも競馬好きの仲間がいて、若手ジョッキーを“推し”として応援している人がいる。
彼女にとっては、馬券は「応援代」。
結果はともかく、今日の追い切りが良かったとか、展開が向かなかったけど頑張ってたとか、そういう話をしていると、競馬の見方が豊かになる。
推しを持つことで、見る目線が変わる。
勝つか負けるかではなく、「どう走ったか」「何を感じたか」に軸が移る。
こうなると、馬券が外れても満足感が残るようになる。
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競馬に救われた瞬間もあった
一度だけ、競馬に本当に救われたと感じた日がある。
人生でうまくいかないことが重なって、気持ちが沈んでいた時期。
その日も何もする気になれなかったけど、ふとテレビでレースを流していた。
そのとき走っていた馬が、最後の直線で大外から一気に追い込んで、1着をもぎ取った。
そのレースを見た瞬間、涙が出た。
馬が諦めずに走っていたことに、自分も励まされた気がした。
たとえギャンブルに苦しんだことがあっても、競馬そのものには、ちゃんと心を動かす力がある。
だからこそ、正しく付き合っていきたいと思った。
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自分の中の勝ちと負けを塗り替える
ギャンブルにハマる人は、「勝つ=金額が増えること」と思ってしまいがちだ。
でも僕は、競馬を趣味として長く続けるうえで、「勝ち」の定義を変えた。
• 推しの馬の走りに感動できたら勝ち
• 友達と競馬を見て楽しい時間を過ごせたら勝ち
• レースの予想が展開通りに進んだら勝ち
• 今日は買わずに1日眺められたら、それも勝ち
この価値観の変化が、僕をギャンブルの罠から遠ざけてくれた。
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おわりに
競馬は、本当に素晴らしい世界だと思う。
人と馬の真剣勝負。育成や戦略、ドラマ。
開放感ある競馬場は、誰と行っても楽しめる空間だ。
だからこそ、誰かと共有できる趣味として、これからも競馬を楽しんでいきたい。
“隠す趣味”ではなく、“語りたくなる趣味”として。
そして、これを読んでくれているあなたにも、競馬が「奪うもの」ではなく「与えてくれるもの」として残っていってくれることを、心から願っている。
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